神道の八百万の神か一神教か。

日本といえば古事記にもありますように、八百万につながる神道があります。

 

方や、西洋にはキリスト教イスラム教の一神教があります。

 

どちらがいいのかという議論はやっても無駄でしょう。

 

どちらも、こっちを立てれば、あちらが立たず。

 

話にあげるだけでも喧嘩になります。

 

それほどシビアな、繊細なことですね。

 

日本は神道に戻ったからと言って、日本の精神性が取り戻せるのかと言ったら、それは無理な話です。

 

八百万の神の論理はあまりにも貧弱だからです。

 

西洋の論理にあっさりと論破されて何もいえなくなります。

 

しかし、神を規定できたならばお互いが疎通できるようになります。

 

東洋と西洋を融合させるには、神の姿をあらわにして規定することが必要なのです。

 

その規定を歴史初、宇宙初で立証したのがNoh Jesuという人物です。

 

 

 

 

「間」という漢字について

間という漢字は日本の精神性に影響を強く与えているのではないかと私は思っています。

 

人間、時間、空間、隙間、宇宙空間、間違い、間取り、間合い、間具合、間髪などなど。

 

人と人の間で人間。

空と空の間で空間。

 

間について言いたいことは2つ。

 

ひとつ目は、

隙間のようなほぼゼロの距離でも間を使い、宇宙空間のような大きなところにも間を使う日本語は、どこから観ているのかという観点を教えてくれている。

 

二つ目は、

人間を意味する時、皮膚の境界線が人間と思うが、人間と間を入れることで、人と人の間の空間に観察主体が行くようにさせているということ。

 

上記二点が人間の本質を理解しやすいベース、土台になっているということです。

 

さらに人間については、江戸時代までは人の意味は持たず、人間(じんかん)と読み、世間のことを表す仏教用語から来ている。

 

江戸時代の人間教育があったに違いないと思わせるものですね。400年続いた理由があるはずですね。

 

以上です。

 

 

 

 

釈迦が言ったとされる天上天下唯我独尊について

天の上にも下にもただ、われだけが尊くあるものだ。

 

これも現実の観点から見たら、生きている命は尊いものだという教えと捉えることができます。

 

悟りの観点からみれば、ただひとつのみがある以上。尊厳そのものだ!といえます。

 

どこ観点から見るのかによって多様な解析ができます。

 

 

 

 

一円相について考察

白紙に丸だけ書いている一円相というものをご存知でしょうか。

 

昔の聖人たちが自画像と言って書いたものとされているものです。

 

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なぜ◯と表現したのか、私の解析です。

 

悟りの観点から言ったら、丸でなくともなんでもよかったと思います。

 

しかし、一円相とした意味があります。

 

これは禅問答とつながっており、師匠が弟子にこれが私です。と言って弟子に見せたシチュエーションを想像してみてください。

 

そうしたら弟子はなんていうと思いますか?

 

弟子

なぜ◯を書いたのですか?

◯の中がじぶんですか?

外が自分んですか?

それとも境界線の黒い線が自分ですか?

 

などなど、質問をしたくなるのではないでしょうか?

 

ここに師匠の知恵があるのだと私は思っています。

 

質問がオートで浮かんでしまう=悟っていないと判断できる。ということです。

 

悟りの観点からみたら、自画像なんて書けない、不立文字、決め付けられない何かなのです。

 

それに対して質問が出るということは、まだまだ修行が足りないぞーっていう師匠流の愛だと思います。

 

昔の禅問答も悟った人は、時空間に支配されない人ですので、ぶっ飛んでいた人が多かったですね。

 

今は、悟ったとしてもぶっ飛んでいては、変人、変態、精神崩壊と言われる時代ですので、礼節を持って行動することが必要になります。

 

あえて縛られて、それを楽しむ境地。

 

 

東洋の復活を目指した白川静さんという方について。

口がつく漢字において、サイという表現を発見し、漢字の深淵を探り続け、東洋の精神性の復活を切に願っていた方がいました。

 

この方は、漢字にはロゴスがあるという信念があったと私は理解しています。

 

私は東洋の精神性の高さは悟りの日常化にあると思っています。

 

白川さんができなかった東洋の復活を私が引き継いていこうと決意しています。

 

全人類に漢字を学ばせて、悟りの日常化を成功させ、地球人である人類が全員1人残らず無我の境地になり、核廃絶、本当の平和で、進化する人類歴史を作ります。

 

そのためには漢字がその道具として使えると思います。

 

ただ、悟りと相性がぴったりな漢字を学ぶためには、個人が悟る必要が不可欠です。

 

それを可能にさせたのが、悟りの産業化をしようとするNohJesuという人物です。

 

悟りが産業化させ、AIがDeep learingすることに対して、人間もDeep learningさせることができるようになります。

 

大組織は誤った意思決定をし、小組織は意思決定は早いが、大きな力に飲み込まれてしまう。

この欠点を補うことができ、win-win-All winする世界、一生心が傷つかない社会を作ることが可能になります。

玄関を何回出たり入ったりしていますか?

玄関も仏教から来ている言葉です。

 

玄という文字は、仏教では、「深い悟りに入る」とされ、玄関は深い悟りに入る関門である。

 

ということは、仏教が伝来し今まで、この言葉がずっと使われて来ていることを鑑みたら、やはり日本は悟りを日常化を行なった国であることがよくわかります。

 

無我の境地をいかに日常に落とし込もうとしていたのか、平和の種である無我の境地の日常化している日本は、おもてなしがある最高の国であり、類をみない国ですね。

 

 

「ウロウロ=有漏有漏」と漢字が当てられている理由。

目的も決めず、適当に歩いてる時に使ったりする「ウロウロ」と言う言葉、仏教から来ている言葉であります。

 

その漢字は、有漏有漏と書きます。

有るが漏れているという表現を重ねて意味を強めている。

なんでこんな漢字が当てられているのでしょうか?

 

私はこの漢字に秘められた秘ストリーをこう読み解きます。

 

真理、悟りの観点から観たときに、無が当たり前になります。

釈迦の表現する「空(くう)」の境地です。

今まで有るのが当たり前だったことから、無が当たり前に変化し、日常化されている境地です。

 

ウロウロとは、

有るという意識に掴まれて、無に入られていない状態。

日常的な表現をすると、質問に掴まれて考えが止まらない。

考えようとも思っていないのに勝手に考えが走って、現実ではなく、自分の妄想に耽ってしまう。

そんな状態を言っておると思います。

 

目的地(悟り)にもたどり着けないと言うことを戒めに使っていたと思われる言葉です。

 

以上で、私の解析を終わります。

 

日本語は悟りの観点から解析するとよくよく意味がわかります。